今回は、前回に引き続きマーク・トウェインが書いた一冊「人間とは何か?」について解説していきます。
前回は「人間は機械である」「自己満足でしか動かない」という話をしましたが、今回のテーマは「人間は生まれで決まるか?育ちで決まるか?」です。
今日、”親ガチャ”というワードも生まれたり、昔から遺伝や家柄で人生が決まるという考え方はあったかと思います。
本書ではその点に関してもマーク・トウェインさんの視点から深いところまで触れられているので紹介したく思い本記事も書かせていただきます。
それではさっそくいきましょう。
人間は生まれで決まるか?育ちで決まるか?
”人間の一生を決める物”とは一体何なのでしょうか。
前回でも説明しましたが、本書はマンガ本で、内容としては老人が主張をしそれに対して若者が反論するといった対話形式の一冊です。
以下前回の続きとなります。
前回記事はコチラ↓
老人は再び口を開くと次のように話しました。
人間はゆりかごから墓場まで、絶え間なく訓練を受けている。特に一番基礎的な訓練となっているのが、他者とのかかわりだ。対人環境こそが我々の心や感情に影響を与えたり、理想を授けたり、進むべき道を示したり、さらにその道から外れないようにするのである。
人間とはまるでカメレオンのようなものだ。誰もがその環境に合わせた色に染まっていく。環境とそこにいる人間たちの影響によって単純な好き嫌いも、政治思想も道徳観も宗教観もすべてが決定されるのである。
引用:人間とは何か?
つまり、人間は外部からの影響を受ける機械ということになり、とりわけ対人関係の影響が大きいということになります。
ポジティブに解釈すればたまたま不幸な状況に置かれた人であっても生きる環境を変え付き合う人を変え見たり聞いたりする言葉を変えれば、自分もそれに応じて変化し人生が好転していくと捉えることもできます。
しかしここで一つ注意しなければならないことがあると言います。それは、環境を変えようという衝動は、自分自身の内側ではなく外側からの刺激によってしか生じないという点です。なぜなら人間は常に外からの力が加わることによって作動する機械だからです。
そのためただ衝動が湧くのをじっと待っているのではなく衝動が湧いてくるような刺激を浴びなければ何も起きないし、何も変わらないということになります。そして、その上で誰かから言われたショッキングな言葉やたまたま手に取った本の一節、不幸な出来事など、外からの刺激によって人間の生き方は180度変わる可能性もあるというのです。
人間は外部からの刺激によって自分を満たす理想が変化しこれまでと全く異なる生き方をする可能性があります。
そして本書ではこういった外的影響を”鍛錬”と呼び、それは自分にも周りにも利益をもたらすものだと主張しています。しかし一方で、鍛錬には限界がありどれだけ教育を受けてもどれだけ本で学んでも私たちの中には抹消しきれないあるモノが潜んでいると言います。
人間の気質には抗えない
私たちの中にある抹消しきれないあるモノ。それは「人間の気質」です。
気質というのは人が生まれながらに持っている個人の性質、いわば性格の基礎をなすものになります。
例えば、世の中にはとてもアクティブで誰とも話せる社交的な人もいれば、その反対に集団が苦手で一人でいるほうが気が楽な人もいます。こういった人間の持つ外向性や内向性は後天的なものではなく先天的な気質であると言われています。
また人一倍感受性が強く敏感な人のことをHSP、最近では”繊細さん”と呼んだりしますが心が繊細であることや鈍感であることもまた人間本来の気質であり、それらが真逆に変化することはないのです。
要は、鉄をどれだけ叩いて強くしても、それが黄金には変化しないように。どんな人間でも本質的に変わらない部分を持っているということです。
ただ本書では、こういった人間の気質は限界はあるものの”鍛錬”によってある程度改善させることも可能だと書かれています。
例えばもともとイライラしやすい気質を持っている人が職場や生活の環境を変えたことでイライラしにくくなり怒りのコントロールが上手くなったといった事例はよくあります。
このようい気質自体は変わらなくても対人関係の変化や新たな知識の習得によって生きやすさが改善される余地は十分に残されているのです。
気質をある程度コントロールできるとのことですが、最初に主張していた「人間は機械であり自らの意思はない」という考えと矛盾してくると思います。
人間の意志を支配しているものとは一体何なのでしょうか?最後にこの点について掘り下げて考えていきたいと思います。
人間の意志を支配しているのは生まれ持った○○
結論、人間の意志を支配しているのは生まれ持った気質と環境です。
イメージしやすいように、「野球観戦に行こうとしている太郎」を例にとって説明します。
野球見に行こうぜい
野球観戦に行こうとしている太郎
→普通に考えれば、観戦チケットを買うことも球場に行くことも太郎の意志によって決められたものになりますが、本書での解釈は異なり、太郎の気質とこれまで生きてきた環境とそこでの鍛錬の結果がそういった選択をさせたということになります。
もう少し具体的に説明すると、
- 太郎は生まれつき外交的な気質の持ち主で集団行動を好む性格であった
- 父親が大の野球好きで幼少期には良くキャッチボールをしてくれた
- さらに中学高校時代は野球部でピッチャーを務め試合でも大活躍をし青春を謳歌した
というように、生まれ持った気質や環境による鍛錬が野球は素晴らしいスポーツであるといった価値観を作り上げ、その結果野球観戦に行きたいという衝動と野球観戦に行く位という意思が生まれたとなるわけです。
→太郎は自分の意志で選択したのではなく本人の気質と外からの力によってそういった選択をさせられたと解釈できる。
おわりに
ここまでで、人間は生まれで決まるか?環境に決まるか?についてみてきましたが、最後に本書のまとめとともに、著者が何を伝えたかったかについて記していきます。
これが本書のまとめになります。人間は、設計通りに動いてしまう機械である、という結論にはなります。が、だからと言って、「人間には生きる価値がない」だとか「人間はどう頑張っても幸福にはなれない」だとかと言っているわけではありません。
要は、自分ではどうすることもできない現実を受け入れた上で、人間はどうやって生きていけばいいのかといった新たな問いを投げることが本書の真のテーマということが分かってきます。
この世にあるすべての物事は人間の創造物ではないのにそれをあたかも自分の手柄だ、自分の実力だ、自分の価値だと誇らしげに振舞うのはおかしいし、誰もが気質や環境に支配されて生きているだけなのに単なる創作品を基準に互いの価値を評価し合いそれで一喜一憂するのもおかしいのです。
人間は設計通りに動く機械なのだから、誰もが今ある現実をあるがままに受け入れ素の自分のままで生きてくしかないのです。
人間は機械であるという、なんとも絶望的な主張のように思えますが、その裏側には自分自身を受け入れありのままで生きていこうよというメッセージが隠されていました。
生きるとは何か、幸せとは何か、とかいろいろ考えてしまいがちですが、物事にはいろいろな意味がある一方で、私たち人間にはどうすることもできない気質や環境、今までの鍛錬の積み重ねが作り出す創造だと思えば、悩みなんかはちっぽけに感じるのかもしれません。
哲学って面白い。
てつる。
ではまた。
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